「アッティラ」のその他の用法については「アッティラ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
アッティラ
Attila
フン族とその諸侯の王
16世紀製作のレリーフ
チェルトーザ・ディ・パヴィーア修道院
アッティラ[注釈 1](Attila、406年? - 453年[2])は、フン族とその諸侯の王。中世ドイツの『ニーベルンゲンの歌』などの叙事詩にはエツェル(Etzel)の名で登場する。現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の「大王」を自称した。ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは、「神の災い」や「神の鞭」、「大進撃(The Great Ride)」と言われ恐れられた。
出自についてはフン族自体と同様、詳しくは分かっていないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属すると思われる。
434年に伯父である王ルーアの死後、兄ブレダとともにフン族の王となる。445年頃に共同統治者のブレダが死ぬと、単独の王となった。アッティラはブルグント族などのゲルマン系諸族を征服し、パンノニアに本拠を置いて東ローマ帝国への侵入を繰り返して、短期間でライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る大帝国を築き上げた。451年、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、ガリアへ侵入したが、ローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマ=西ゴート連合軍とカタラウヌムで戦い、敗退した。翌452年にイタリア半島へ侵攻して、ミラノ、アクイレイアなどの諸都市を陥れたが、教皇レオ1世の説得によって撤退した。
アッティラの治世下で帝国は最盛期を迎えるが、453年、自らの婚礼を祝う酒宴の席で急死した。アッティラの死後、息子たちの間で内紛が起き、フン帝国は瓦解した。
生涯
出自詳細は「フン族」を参照アラン族と戦うフン族。ヨハン・ネポムク・ガイガー画(1873)
フン族は、ヴォルガ川以東から現れ、370年にヨーロッパへ移住して強大な帝国を建設した、ユーラシア遊牧民の集団である。彼らの主な軍事技術は騎馬弓射であった。その出自とフン語については、数世紀にわたり論争になっている。
フン族は強力な騎馬部隊を率いる蛮族としてその名を轟かせており、東進の過程でアラン族やゴート族の王国を滅ぼして住民を虐殺し、生き残った者たちも配下の兵士とするなど、多くの部族を従える立場にあった。4世紀末から度々東西ローマの領内に入り込んでは、撤退する代償として莫大な賠償金を獲得していた。410年頃にフン族はドナウ川中流域を制圧し、433年には西ローマ帝国の将軍アエティウスと取り引きして、兵力提供の見返りとしてパンノニアとイリュリクムの一部の支配権を認められた。
アッティラは406年頃、フン族の王ルーアの弟、ムンズクの息子として生まれた。
共同王位中央アジアのステップから現代のドイツ、ドナウ川からバルト海にまで広がるフン帝国
434年、ルーア王が死去し、フン族全体を統べる者として甥のブレダとアッティラが残された。兄弟は即位すると、逃亡者(主にローマ側に雇われていたフン族兵士[3])の送還について、東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世の使節と取り引きを行っている。翌年、アッティラとブレダ兄弟はマルゴス(現ポジャレヴァツ)で、フン族の慣習に従って騎乗にて帝国使節団と会見し[4]、ローマ側は逃亡者たちを送還するだけでなく、ルーア王に納めていた貢税を倍額の金700ローマ・ポンド(250 kg)とし、市場のフン族商人への開放およびローマ人捕虜1人当たり8ソリドゥス金貨の身代金の支払に同意する、フン族に有利な条約を結んだ[5]。送還された逃亡者の中にいた2人の王族の少年は、十字架にかけられて処刑された[5][6]。フン族は条約に満足して東ローマ領から立ち去り、おそらく自らの帝国を固め強化するためにハンガリー平原へ戻った。